「そりゃ、先生のお供をさせて頂きながら、うっかり居眠りした僕は悪かったです。お化けの質問も--眠気に襲われた僕が睡魔を払おうと思って尋ねたものだったかもしれません。先生はきっとそのことを見抜かれていたのでしょう。でも、考えてもみて下さい。東京から仙台までわざわざ鈍行列車ですよ。柳田先生には窓から見える景色がずっと面白くて仕方がないようなのですが、僕には同じような変わりばえのしない田舎の風景が続いているとしか見えなくって……。先生の目に見えているのは、僕のような一般人が見ているものとはまるでちがっているんです」
関口さんはそう言って肩を落とし、大きなため息をついた。
気の毒と言えば、気の毒な話である。
もっとも、柳田先生が身近な者に厳しいのはいまにはじまった話ではない。
わたしが読んだ事前資料によれば、世田谷成城に洋館風の書斎を建てたばかりの頃、柳田先生は若い書生を二人“初めての弟子”として一緒に住まわせたことがあった。向学心に燃える若く優秀な書生たちと先生の同居は、しかし、あっという間に破綻している。
二人とも耐え切れずに逃げ出したのだ。噂(うわさ)によれば、先生との同居中、かれらは“真剣に自殺を考えざるを得ないほどの暴言にさらされ続けた”という。
柳田民俗学の基礎資料となる情報採集者たちも同様で、先生に方針を相談すれば、
「そんなこともわからないのか。いつまでも手間(てま)がかかる奴だ。いい加減、独り立ちしたまえ」
と小言をいわれ、逆に相談せずに調査を進めると、
「勝手にやられては困る」
と文句を言われる。
面と向かって文句を言われるだけならまだしも、ほかの人たちの前で「あれはきみ、ダメだよ。ヘナチョコでね」などと貶(けな)されたのでは、本人の立つ瀬がない。
柳田先生は、ご自分にも他人にも厳しい“注文の多い人”なのだ。
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