左上が翁長安子さん。隣は妹。那覇市の神社・波上宮の祭りの帰りに撮影しました=1944年5月17日(本人提供)
1面のつづき
翁長安子さんは沖縄戦当時、米軍が首里城めがけて戦車砲や艦砲を撃ちこむのを、壕の銃眼(射撃を行う開口部)から見ました。安子さんがいる一帯にもたくさん砲弾が飛んできました。
攻撃が集中する日中を避け真夜中に飯をつくり朝食は朝5時半までに、夕食は夕方6時半以降に届けました。
食事・水を運ぶ時、機銃掃射に2回遭いました。砲弾に撃たれた兵士の血も浴びました。
壕は偵察機に察知されました。戦車砲で攻撃され、火炎放射器で入り口を焼かれ、目の前で兵士たちが焼かれ、苦しさで暴れながら死んでいきました。最後は壕に穴を開け内部に爆薬を投げ込んで破壊する「馬乗り攻撃」を受けました。
生き残った安子さんは真夜中、内壁にぴったりとくっついた首や手足、血で染まった床が照明弾の明かりで浮かび上がるのをみました。「あの時代でも、米軍はこちらの動きを察知していました。軍事技術が発達した今、シェルターで助かるわけがない」
一覧へ戻る